・起り
1971年の丁度、東京に夏の風が吹く頃であった。その頃、東京といわず全国規模で学生運度は大きな盛り上がりを見せていた。夏の風が騒ぐせいで、人の動きや虫の動きはひどく活発なものになっていたのである。
そういった時は、色々なものが慌しく、また事の軽重はひどく曖昧になってしまう。一人の女の死は、そういった渦の中で起きたものだった。夏の風が、もうそろそろ強く臭いだす時分であった。
デスクの上には、未解決のままの資料が山となっていた。新米から、やっと卒業しつつあった配属四年目の加藤一路は、その山を気迫なえる面持ちで見つめていた。
警視庁捜査二課の学生運動関係ポストに、ここ二年ばかり彼の労働時間は費やされていた。
時代が、激しい振動音を立てて、その振動の中核にそういう学生運動というものがある時代の話である。勢い、加藤含めこの手の捜査を受け持つ刑事たちの仕事量は一向に減る機会を見せなかった。
しかし、どれだけ働いたとしても、結局最後には検察庁の連中の丁稚に使われて終わるのが、彼らのポストの宿命でもあった。加藤はそのような日常に、他の者たちと同様けっして満足してはいなかったが、彼の頭を悩ませるのはもっと別の内容のものであった。
それは、未整理の書類の山から隔離され、茶色の事務封筒に包まれた形で男の机の中に安置されている。
加藤は引き出しを開けると、件の茶封筒に手を掛け、半ば日課となっている見分を始めた。
封筒の中には、三枚の書類と女の写真が一枚納められている。
「また、見ているのか。」
加藤の背後から、太い男の声が掛かった。煙草で焼けた、男っぽい声である。
「係長・・・。ええ、まあ。」
生返事には軽い拒絶が込められていた。大事なものに触れられたくないという、そういう我侭な感情が表れているようであった。
「いつまでも、それ一つに掛かりきりというわけにはいかないんだが。ただでさえ、うちの課は人手が足りないんだから。」
係長と呼ばれた男が、いがらっぽい声を絞り出す。
「どうも腑に落ちんのですよ、それだけです。」
「まあ、その娘さんには気の毒したが、我々が悪いってわけじゃあないんだ。いつまでも、気に掛けることはないんじゃないのか。」
何回も繰り返した言葉を再び言う時の、独特の鬱陶しさを有した口調であった。加藤は、言葉の主に視線を合わせないよう、こういった。
「わかってますよ、僕もそういうつもりで見ているわけでは・・・。だた、気になるんですよ。」
「そういう、刑事の勘なんてものは、テレビにまかせておけばいい。とにかく、手が足りないときにぼさっとされちゃ困るだけだ。わかっているならいいが。」
「ええ、わかってますよ。お説教はもういいです。外回り、行ってきますよ。」
加藤は話の腰を強引に折りながら、机の上から必要なものを背広のポケットにねじ込むと、係長の顔に一瞥もくれず扉から廊下へ足早に出て行った。
気づかれないように、女の写真と一枚のメモをポケットにしのばせながら。
廊下を歩きながら、加藤は写真の女性に目を落としていた。細面ではあるが、意志の強い感じを漂わせる女性の口元には、活力のある笑みが浮かべられていた。
写真の主は山石依子、通称T女史と呼ばれていた女性である。今年の7月まで、とある左翼系学生運動セクトの幹部だった。
6月に起きた彼女の通う大学の、学長狙撃事件が結果的に、セクトの崩壊と彼女の死を引き起こした起因であった。
梅雨の長雨の中、稲光のように衝動的な軌跡を描いて、三発の銃弾が事件を起こした。
都内の国立大学大学長が、世田谷の自宅への帰宅途中に襲われた。
犯人は逃走、玄関先の異常に気がつき、駆けつけた婦人がかろうじて目撃したのは、黒いジャンパーを着た三つの影であった。
当局はこれを、大学自治を巡って学校側と激しく対立していたセクトグループの犯行と断定し捜査を開始した。三日後、実行犯と思われる被疑者二人の死体がセクトグループのアジトの一つから発見された。拳銃自殺した彼らから検出された弾丸は、学長射殺事件で使用されたものと同一の線条痕が発見された。
自殺したのは、セクトグループの書記長補佐二名であり、当局は依然行方のわからない書記長・乃木裕介の指名手配を進める中で、彼の恋人で他セクトとのパイプ役を務めていた山石依子の身柄を拘束した。
しかし、被疑者拘留の期限が過ぎても、山石依子と今回の事件との接点は発見されず証拠不十分のまま釈放されたのである。
恋人の乃木は依然行方不明のままであった。
釈放直後に行われたセクトの集会に、混乱を収拾すべく出席した依子に、周囲の語るところによればその夜、取り立てておかしな点は認められなかったという。
大量の睡眠薬によって、突発的に彼女が自ら命を絶ったのは、検死の結果その夜の午前三時から六時の間であったという。
加藤は初期捜査の段階から、依子の事件への関与を強行に主張してきた。取調べも担当した。完全黙秘を貫く被疑者は、彼の経験則上、何らかの事実を知っていることがほとんどである。
刑事の勘に、加藤は忠実に従った。しかし、依子は吐かなかった。大の男が、それも脅しの技術に長けた職に就く彼の、長時間の取調べにも依子がひるむことは一度としてなかった。
むしろ、彼女の瞳の強さに、加藤のほうが圧倒される有様であった。
彼女の力強い瞳と、その自殺、二つを結びつけるに足る根拠が、加藤の中でどうしても見つからずにいた。
セクトグループは中心メンバーを失い、構成メンバーの多くは他のグループに移るか、それ以外は運動を止めるなりし、七月の終わりを待たずして消滅した。
依子の恋人、乃木の行方は杳として知れなかった。
加藤の足は依子と乃木の同居していたアパートに向かっていた。それは、自然に、とても自然にそうなっていたのである。